【国指定史跡】
「津軽氏城跡」は、はじめ「弘前城跡」として昭和27年3月29日付で国の史跡指定を受けた。
このとき指定を受けたのは、近世大名津軽氏の居城として慶長年間に築城され明治維新に至った本城一帯と、城下町の外側に作られた防御施設である惣構の長勝寺構と新寺構にあたる部分であった。
その後、津軽氏の発展過程の理解を容易にするためには、弘前築城以前の津軽氏居城である堀越城跡を弘前城跡と一体として保存すべきであるとの考えから追加指定がなされ、昭和60年11月15日付で「津軽氏城跡 堀越城跡 弘前城跡」と指定名称を改めた。
同様に平成14年12月19日付で、津軽氏の祖光信が入部した中世城跡、種里城跡(西津軽郡鯵ヶ沢町内)が追加指定され、指定名称は「津軽氏城跡 種里城跡 堀越城跡 弘前城跡」と改められた。
堀越城跡
よみがな | つがるししろあと ほりこしじょうあと |
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員数 | |
文化財の概要 | |
指定年月日 | 昭和60年11月15日 |
所在地 | 弘前市大字堀越 |
所有者・管理者 |
津軽氏は、系図では光信を始祖とし藤原秀郷を遠祖とする。しかし、諸史料からみると、南部氏の一族であったらしい。はじめ種里(西津軽郡鯵ヶ沢町内)に住し、のち大浦(弘前市内)に移り大浦氏を名乗った。そして、光信から五代後の為信が大浦城を本拠として津軽から南部氏の勢力を一掃し近世大名として津軽氏と称するようになったものである。元亀2年(1571年)、その口火を切る南部氏郡代の居城石川城攻略の前線基地となったのが、堀越城である。
堀越城の歴史は、南北朝時代の建武3年(1336年)北朝方の武将曽我貞光が堀越に楯を築いたことに始まる。草創時の規模やその後の変遷は不明であるが、為信の実父という武田甚三郎守信の居城となり、更に為信が領知することになったといわれる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉に拝謁して津軽の領有を認められた為信は、文禄3年(1594年)本拠を大浦城から堀越城に移し、あわせて家中諸士、神社仏閣、商家なども堀越へ移住させた。これは、政治及び経済面での領内支配強化のためといわれる。しかし、家臣の反乱で本丸が陥落するなど、軍事面からみると堅固な城ではなかったようである。
このため為信は新城の建設を計画し、二代藩主信枚が慶長16年(1611年)高岡(弘前)に居城を移し、津軽氏の本城としての堀越城の役割は終わった。
堀越城は平城である。その規模を示す当時の史料はほとんどない。しかし現在でも本丸の土居や堀跡はよく残り、当地方の城郭の変遷を知る貴重な遺構であるとともに、津軽氏の発展過程を示すものとして重要である。
天守と下乗橋
よみがな | つがるししろあと ひろさきじょうあと |
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員数 | |
文化財の概要 | |
指定年月日 | 昭和27年3月29日 |
所在地 | 弘前市大字下白銀町ほか |
所有者・管理者 |
弘前城は、初代藩主為信が計画し二代藩主信枚によって築かれた近世初期の城である。
慶長8年(1603年)、堀越城を居城としていた為信は、当時高岡と呼ばれていたこの地に新城の建設を計画し城下の町割に着手。慶長12年為信は京都で没するが、その子信枚が遺志を継ぎ、同15年(1610年)2月15日東海吉兵衛によって城の繩張が行なわれた。そして翌年の慶長16年(1611年)5月、城の大部分が完成した段階で信枚が堀越城より移っている。以後明治に至るまで津軽氏代々の居城であった。
城は、南北に長く東西に短い矩形を呈しており、南から北に伸びる台地の北端部に主要部を構えている。本丸、北の丸、二の丸、三の丸、四の丸、西の丸の六郭で構成される平山城で、本丸の四周に石垣が積まれているほかは、すべて土塁に囲まれている。更に、北、東、南の三方には三重に濠が巡らされ、西側は蓮池と、もと岩木川であった西堀で守られている。
築城以来、二の丸、三の丸、四の丸は侍町になっていたが、元禄年間に四代藩主信政はこれらの武家屋敷を城外に移転させている。また信政が三の丸南門に変更するまでは、北門(亀甲門)が追手門であった。
全国的にみて、三の丸を含む城郭の大部分がほぼ旧態をとどめている例は非常に少なく、また天守、櫓、門など城郭建築もよく残されており、近世における城郭の規模を示すものとして重要なものである。
【新寺構】
北から南を望む
藩祖為信が新城を計画したとき、兵法者沼田面松斎の意見を用い、四神相応の地として高岡を選んだという。四神相応の地とは「陰陽道おんみょうどう」で、東に青龍神が宿る川、南に朱雀神が宿る池、西に白虎神が宿る道、北に玄武神が宿る山に囲まれた土地である。
慶長17年から19年にかけて、二代藩主信枚は城の南方に溜池(現弘前大学医学部グランド付近)を構築した。土居を築き貯水したもので、南溜池と呼ばれた。これは有事の際、土居を破り南溜池と土淵川を結び、東と南の防衛線とすることを目的としたものであるが、弘前には南の朱雀神が宿る天然の池がなかったため、この溜池をもってそれにあてる意図があったらしく、溜池一帯は城下の南限であった。慶安2年(1649年)の寺町大火後、溜池の南に寺院を移転させ、この町割りを新寺町と称した。
旧南溜池一帯は、弘前の町全体を1つの城と見立てた築城計画を示す地域として重要である。
【長勝寺構】
東から長勝寺を望む
慶長15年、新城建設に着手した二代藩主信枚は、堀越並びに近隣地域の寺院神社に対して新しい城下町に移るよう命じた。そしてこれらの寺社は、城下の要衝に配置されたが、西南の押えとなったのが長勝寺を中心とする寺院街である。
元和元年(1615)1月、南方の茂森山が城郭より高く城を見下すという理由からこれの切崩しにかかった。また同年3月から長勝寺門前と茂森山の間に濠を掘り、土居を築き、桝形を設けた。寺院街はその西に置かれ、曹洞宗の寺院だけ三十三ヵ寺で構成された。その周囲、北から西にかけては崖地で、自然の要害となっている。これが弘前城の外曲輪、長勝寺構である。
城下町弘前の歴史と、津軽藩の宗教政策を知るうえで重要な地域である。
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